川越出身の漫画家・花村えい子さんにインタビュー 2008.10.15 |
展示会場にアトリエの机周りを再現したコーナーで、花村えい子さんに聞きました。花村さんは、展示されている奈津子ちゃんそっくりの愛らしい笑顔で、気取らず気さくに答えてくれました。その模様をまとめて紹介します。(文中、一部敬称略)
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本紙「小さいころは、どんな少女でしたか?」
花村「連雀町の家の近くには男の子しかいなかったので、戦争ごっこ、チャンバラごっこなどしていました。一人の時は、熊野神社の石段の所にあったサルスベリの木から滑って遊ぶ、おてんばな女の子でした。でも本が大好きで、遊びに行った男の子の家に見たことがない本があると、遊びはそっちのけで夢中で読んでいました」
本紙「絵はお好きだったのですか?」
花村「小さいころ、ふすまや、門から入った玄関周りの敷石、地面などに白墨で絵をよく描いていたので、家の人は困っていました」
本紙「少女漫画を書いたきっかけは?」
花村「貸本漫画家が近くに住んでいて、描いた絵を見せたところ、いきなり「描きなはれ」と言われました。弟が持っていた手塚治虫先生の漫画に強い衝撃を受けたことはありましたが、漫画家になろうと思ったことがなかったのでびっくりしました。そのころは今のスタイルのストーリー漫画の出初めで、それまで全く読んだこともなく、「描きなはれ」の言葉に自己流で絵を作り、物語を書いてみました。それを貸本漫画家の人が出版社に持ち込んだところ買ってもらい、原稿料を頂き、いろいろお声を掛けられ、始めるきっかけになりました。その後も自分から漫画家になるんだという意識はなかったのですが、時代の流れの要望の中で、どんどん連載が増えていきました」
| 体を壊して半年休み、作風が「少女漫画」から「大人の女性」に |
本紙「作風は、どのように変わっていったんですか」
花村「たくさんお仕事を抱えているうちに右手が動かなくなり、半年ぐらい仕事を休んだ時期がありました。その時、私は中原淳一や竹久夢二の絵にあこがれ、大人の絵が描きたかったことを改めて思い起こしました。その思いと、少女漫画を読んでいた世代が成長し、大人になっても漫画を読みたいという新しい流れの中で、手が治ってからは女性漫画、ミステリー漫画へと仕事の幅が広がっていきました」
本紙「普段お仕事は、どこでされているのですか? 川越に来られることは?」
花村「普段は都内の自宅に住んでいるんですが、仕事のときは10日〜半月ぐらい熱海のアトリエにアシスタントの女の子と暮らしながら仕上げます。川越にはたまに、弟や100歳になる母に会いに来ます」
本紙「ご自身で一番お好きな絵は?」
花村「う〜ん、あんまり無いですね。どうしても、見ると『もっとこうすれば良かった、ああすれば良かったという思いの方が強くて…」
本紙「先生の場合、しゃにむに漫画家の道を歩んでこられたという感じではないんですか?」
花村「生来のんきな性格なので、これまで人生どの場面でも『ケ・セラ・セラ(どうにかなるさ)』という感覚で、あっけらかんと毎日を楽しく暮らしてきました。漫画を描きだしたころも漫画家になるつもりはなかったですね。皆さんが求めて下さった流れに乗っているうちに、どんどん作品が増えていったような感じで…。フランスでの反響も、あるお店に飾ってあった私の絵を、たまたまごらんになって気に入ってくださった女性が雑誌『エル』の方だった…とか。幸運に恵まれていたのだと思います」
本紙「本日は、どうもありがとうございました」(先生はとても丁寧に話してくださり、もっと伺いたかったのですが、先生を待つファンや友人の方が大勢いらっしゃったので、残りはまたの機会に…)
(写真は郭町の市立美術館で)